「蛇崩川」 vs 品川用水      

<蛇崩川源流の溜池は湧き水?>

 蛇崩川源流の溜池は品川用水がいったん地中にしみ込んだ後に湧き水として再度地表に
湧き出たものだというが・・・

確かに品川用水の流れていた千歳通りから馬事公苑の脇を通り桜新町の通りまで歩いても
豊富に水を蓄えておけそうな地勢にはなっていない。
品川用水そのものが尾根伝いに流れていたので、尾根の両側は傾斜地や窪地になっている。
品川用水を挟んでかつてのババ池(弦巻)の対極に天神溜池(上用賀)があったが、この天神溜池の
周辺も保水力があり自然に水が湧けでるような地勢でない。

世田谷の尾根に流れる品川用水

1. 品川用水と溜池(古地図) 2. 品川用水と溜池(地勢図) 3. 品川用水と溜池(現代地図)
(目黒筋御場絵図) (国土地理院) (国土地理院)

 蛇崩川源流と品川用水は上の各地図の中で描かれている。 地図 1. の「目黒筋御場絵図」では溜池が独立して存在している。描かれている各々の川は品川用水を分水嶺として用水の両脇から外に向かって流れ出している。したがって品川用水をまたいでいる川は存在しない。この地区の土地に保水力があったのかどうかはわからない。保水力が十分であったとも思えないので蛇崩川源流にあったババ池(弦巻)、ジジ池(桜新町)、天神溜池(用賀)とも品川用水の湧き水だったと思われる。どういう経緯で溜池になっていったのかを推察してみた。江戸時代に一度は許可された品川用水の取水も品川用水の本来の目的だった荏原への水供給がおぼつかなくなって禁止された。正面切って取水できなくなったことを受けて、溜池の整備をして、間接的に品川用水の漏水を湧き水として利用したのではないかと思われる。品川用水は昭和25年ー27年にかけて埋めたられたが、各溜池も前後して地図上から消えている。ババ池は不法占拠への対応もあって埋め立てられたとのいことだが、埋め立て直前の池のようすがどんな風だったのか興味がわく(向井潤吉の絵画「新雪」はここ)。 また品川用水が整備されるずっと以前からこの地区に蛇崩川は存在していた。その姿がどのようなだったのか興味がわく。因みに品川用水と溜池・川の暗渠化は下記のようです。
                                                。
池・川の名前 開始時期 暗渠化時期
ババ池(弦巻)
調べ中

-----------------
昭和20年終戦後不法占拠を受け
ジジ池(桜新町) 調べ中
-----------------
調べ中
蛇崩川 下流に縄文遺跡があるくらいだから自然河川として古い。
----------------
昭和48年
天神溜池(用賀) 享保5年(1720年)開鑿(用賀Naviより) 品川用水の分水を貯水する灌漑用の池として造成された。分水禁止後(年)は漏水を利用した。
--------------------
昭和期
品川用水 寛文7年(1667年)開通 昭和25年(1950年)-27年


蛇崩源流の溜池が用水の漏水だったとは思いたくないが、純粋な自然の湧き水だったと理解するのは分が悪い。


世田谷地区は品川用水は通過道だったとは言え、世田谷に大変な影響を与えた。品川用水のようすは下記です。

品川用水

4. 品川用水の案内板 . 品川用水工事風景 6. 品川用水にかかる橋
(千歳通りの案内) (品川用水/品川区教育委員会から) (目黒筋御場絵図から)

 上の3枚の画像で世田谷地区の品川用水のようすが多少わかります。 品川用水は高い場所は木管で、低いところは盛土をして水を流したいうことで工事も大々的な工事をしたようです。品川区教育委員会で出している小冊子の絵(上の5番)で工事のようすがよくわかります。品川用水の規模は幅4−5メートル、深さ1メートルほどあったそうです。自由に行き来できるような幅ではなかったこともあり、要衝な場所には橋があったようですが、近隣農家はずいぶん不便な思いをしたという記事を目にしたことがあります  絵図の6.番目にある「目黒筋御場絵図」にはかつての津久井往還(現世田谷通り)と交差する場所と大山街道と交差する場所を含む3か所にあった橋が描かれています。 描かれている橋は下記のです。。
                                                。
橋の名前 場所 写真
喜多見橋 上用賀2−2 (農大前)
中の橋 調べ中
下の橋 旧大山街道との交差地点
*橋は絵図参照




【メモ】
古地図・絵図 「目黒筋御場絵図」で思うことは・・・
「目黒筋御場絵図」(めぐろすじごじょうえず)は将軍家の御鷹場用の地図です。1805年に製作されています。ポンチ絵に近い村絵図しかなかった時代に(しかも村単位)これだけの絵図があるというのはすごいことです。驚くことに絵図は200年以上前に製作されていますがその後の世田谷地区の環境の激変にも拘わらず現代地図で場所が特定できるものが描かれています。やはり将軍家の力は幕末とは言え、絶大だったのがわかります。 この地で鷹狩が実施されるときは大変だったようで、各村にタカの餌となる”おけら”の献上が義務付けられたとうことです。村ではオーダーが出ると農作業もそっちのけで夜を徹して”おけら”獲りをせざるを得ず、大変だった言う記事を読んだことがあります。 世田谷区の区誌には、いついつ、何村から、おけら何匹献上と言う明細がこまかく書いてあります。納税はいつの時代も大変です。。
用賀駅から天神溜池までは・・・
水幅・深さ 工事のようす      源である” と説明されている。 自分としては二つの池が用水から出たものだとは思いたくないのだが
場所:世田谷区下馬町1丁目8−10
立地:武蔵野台地上
現状:宅地・学校・道路
種別:集落跡
内容:縄文年代早期〜中期。。。
世田谷にかかる橋と用水の両側の農民の不便さ・・・
用賀駅周辺は激変してしまったことで、用水路の跡はわからなくなっているが、現在のセブン・イレブンのある通りから溜池までは用水路が比較的わかりやすく維持されている。

古地図:世田谷区下馬町1丁目8−10
橋:武蔵野台地上
現状:宅地・学校・道路
種別:集落跡
内容:縄文年代早期〜中期
規模:東西110メートル 南北70メートル
蛇崩川の左岸の台地上に位置していて、目黒川支流である蛇崩川に面した台地上に営まれた遺跡

ということで目黒川に近接とは言え縄文期から蛇崩川沿いに集落があったということから、心情的に江戸期の用水の湧き水が源流とは考えたくな〜い。
2015/11/18 追記
地図(グーグル)で見るだいたいの蛇崩川は・・・
gg
写真で見る蛇崩川源流から駆け足で目黒川合流までは・・
蛇崩川源流のあった弦巻から目黒川合流まで


最初から

画面を戻すのは・・・
ホームに戻る



戻る(アーカイブへ)